(聖路加国際病院・心臓血管外科 渡辺 直)
心臓は全身に血液を送るポンプです.その強い収縮によって全身に血液が駆出されるわけですので,心筋(心臓の筋肉)が行う仕事量はかなりのものになります.その必要エネルギー量は,単に心臓の内腔にある血液から心筋内へと浸透してゆくようなメカニズムではとうてい送りきれるものではありません.そこで心筋へと血流をおくる特別の血管系が存在するのです.これが冠動脈系です.
大動脈の根本に近い部分(大動脈弁よりも数cm上側)から左右に動脈が出ます.右冠動脈と左冠動脈です.左冠動脈は本幹(主幹部)を数cmだした後で,すぐに前側に降りてゆく血管(左前下行枝)と後ろ側に回ってゆく血管(左回旋枝)に別れますので,通常心臓の筋肉を養う血管は3本ある,と表現されます.すなわち,
心臓の右側を走り,右心室と左心室の下面,心室中隔(右心室と左心室を隔てる壁)の後部分を栄養する右冠動脈
心臓の前面を走り,左心室の前面〜側面,心室中隔の大部分を栄養する左前下行枝
心臓の後面を走り,左心室の側面〜後面を栄養する左回旋枝
です.これらの3本の動脈系が枝分かれしながら心筋の各部に入り込んでゆき,必要な栄養分を供給するのです.
冠動脈硬化症とは?
冠動脈硬化とは,文字通り,冠動脈におこる動脈硬化のことです.では動脈硬化とはいったいどのような病気なのでしょうか.動脈硬化,とは,たとえて言えば,パイプの”ヤニ”詰まりです.血液中に存在するコレステロールやカルシウムなどの”ヤニ”の原因となる物質が,高い圧にさらされてわずかに損傷が入った動脈壁にくっつきます.そうするとこの付着物の上にさらに”ヤニ”の原因物質や血液凝固成分などが付着してゆき,次第に斑状にへばりついた塊となってゆきます.これを粥腫斑
(atheromatous plaque)と呼びます.粥腫(じゅくしゅ)の中にはヤニ物質がなかば半固形状の汁となってたまっており,粥腫斑の付着した部分の動脈壁は柔軟性を失って蝋細工状の硬さに変わってゆくのです.動脈硬化,とう言葉はこの硬さから由来してるのですが,動脈硬化の本態は,単に部分的な動脈の硬化,ということにとどまらず,実際にはパイプのヤニ詰まり現象を意味しているのです.
冠動脈硬化をおこした部分では冠動脈の内腔が”ヤニ”によって狭められる現象がおきます.軽いうちはたいした狭窄にはなりませんが,ヤニの上にヤニが着き,さらに狭くなって,内腔を通過する血液が渦を巻くように流れが滞りがちになると,さらにそこに血栓の付着も重なって,次第に内腔が極端に狭まってゆくことがあります.本来の内腔径の75%以上に内腔が狭まる(すなわち,内腔がもともとの25%以下の直径になってしまった)場合に,はじめて冠血流の低下,という現象が生じます.(逆に言えば,左冠動脈主幹部を除いて,冠動脈狭窄が75%以上まで進行するまでは冠動脈血流に有意の減少は生じないのです.)
←粥腫斑による冠動脈の狭窄を示した模式図
狭心症と心筋梗塞について
冠動脈硬化症が進行して,内腔がもともとの直径の75%以上狭まってしまう(つまり内腔がオリジナルの25%以下になってします)と,冠血流の低下という減少が生じます.安静にしていれば,低下した血流でも心臓に必要なエネルギー源の供給ができるのですが,安静から急に動き始めた場合や突然に緊張して心拍数が増えたりすると,その急な心筋エネルギー需要を狭まった血流路を介して供給しきれなくなります.つまり,心筋が酸欠状態になるのです.たとえて言えば,指に輪ゴムをきつく巻くと指先の血流が減って指の色を紫色に変わり,しびれと痛みが出るような事が心筋におこるのです.そうすると前胸部(〜左腕,時にみぞおちの部分や顎の下など)に押しつけられるような,締め付けられるような痛みと不快感が発生します.これが労作性狭心症という病状です.狭窄の程度がそれほどきつくない場合は,ある程度の運動や労作の継続によって心臓の血管全体の拡張がおこるために,すこしは冠血流が改善し,狭心症の症状が軽減してゆきます.このように労作性狭心症の発現は通常,動き始めの数分などに限定しておこる性質があり,これを狭心症の発作,と呼びます.
さらに冠動脈狭窄が進むと,わずかな労作や安静時にも血流不足が生じて胸痛発作が出るようになってきます.いままでは動き始めだけであった胸痛がしばらく続いたり,安静時にも起こってきたりする,ということは動脈硬化性病変の進行を意味していることが多く,この病態を不安定狭心症と呼びます.
さらに冠動脈狭窄が進むと,ついには血栓成分などの付加に伴って動脈内で完全に血流が途絶する状況が起こり得ます.こうなると,閉塞部以遠へは血流がいかないので,その部分の心筋は完全に酸欠となって,ある程度その状態が続くと心筋は生活力を失って死滅してしまいます.これが心筋梗塞の発症です.下の図は左前下行枝中腹の閉塞によって左心室の前面〜心尖部(心臓の先のとがった部分)に梗塞が形成された様子を模式的に示したものです.
狭心症の場合,心筋の生活力は失われていませんので,血流不足によって収縮力が低下している場合でも薬剤治療や手術治療などで冠血流が増加する
と,その収縮力は正常へと復帰してゆくことが普通です.これに対して,心筋梗塞に陥ってしまった部分は決して再度心筋細胞として復活すること
はありません.この部分は収縮力のない,線維組織,と呼ばれるすじばった組織で置き換わってしまいます.いわば心臓の一部が単なる革袋に
なってしまうのです.
心筋梗塞の範囲が広いと収縮できる心筋の量が顕著に減ってしまうので,ポンプとしての心臓の働き
ができなくなり,全身臓器が栄養を供給されなくなってゆきます.これがポンプ失調による死亡の機序です.また梗塞部から異常な不整脈が出て心臓の
収縮がなくなってしまったり,梗塞部が破裂して内出血を来したり,乳頭筋
が梗塞に巻き込まれると弁膜機能が破綻してしまい,ポンプ失調を招いたりすることがあります.要するに,心筋梗塞は範囲や場所によって致命的
な病気になり得るのです.
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これまでの説明で,狭心症が心筋梗塞にいたる”黄色信号”であることはわかっ
ていただけたことと思います.ところが交通信号のように,いつでも黄色信号が出てから赤信号(心筋梗塞)になる,というわけではない,と
いうことが問題なのです.
軽度の狭窄しか起こしていない粥腫斑であっても,性状が不安定で,破綻(破れてはじける) することによって中身の汁 (atheroma juice)が湧出すると,これが刺激となって一気に血液凝固機転が作動し,閉塞に至る場合がしばしばあるのです.従って, それまで一度も胸痛を自覚したことなく,アクティブに仕事をしていた人が突然に胸痛を起こして運ばれ,不幸にも梗塞が広範囲で命を落と してしまう,というような事がおこり得るのです.
また,冠動脈にそれほど狭窄を持っていない人でも,自律神経の変動などを契機として,軽い粥腫斑のある部位などに強烈な血管のけいれん(スパズム)を生じて,突然に当該部位が女性のウエストのようにくびれ,血行が著しく悪くなって狭心症,ひどいときには長時間の完全閉塞に至って心筋梗塞を生じる場合があります.
心筋梗塞を発症した人の30%以上が,その時が最初の胸痛発作であった,という統計があります.労作性狭心症を持っていて,これが次第に増悪して(不安定化し),最終的に梗塞発症に至るというような典型的な冠動脈硬化病変の進展を経ない症例がけっこうある,という事です.
冠動脈疾患の診断法
狭心症の症状(労作時の胸痛)がある場合,この発作時に心電図を取ると,特有の虚血所見(血流が悪い所見)が得られます.しかし非発作時にはほとんど正常な心電図しか得られないことが多いのです.したがって安静時にとった心電図が正常である,という事で狭心症がない,とは決して言えません.胸部X線写真や心エコー図所見も非発作時であれば通常は全く正常のはずです.
非発作時に心電図で所見を得るためには,従って,運動負荷をかけることが有用です.つまり心臓に負担をかけることによって,意図的に”前狭心症状態”を作りだし,心筋虚血所見を得るのです.ベルトコンベアの上を歩いてもらったり,表彰台のような台を上り下りしてもらったりして心電図をとる検査です.
症状や運動負荷試験などから疑いがもたれる症例には,積極的に心カテーテル検査,冠動脈造影を実施すべきです.ちょうど胃の病気を見つけるために胃カメラをやるように,心臓の血管を調べるためには,やはり心カテーテル検査が確実な診断を得る大事な検査なのです.
上腕の動脈あるいは大腿部の動脈から直径2mmほどの細い管(カテーテル)を挿入します.もちろん皮膚穿刺部は痛みがあるので,この部分には局所麻酔をしますが,血管の内腔側には感覚神経がないので,まったくわからないうちにカテーテルは血管を遡行して心臓のそば,あるいは心腔内に入って行きます.この管を介して造影剤を注入すると,冠動脈を選択的に造影することができ,左心室に挿入した管を介して左室造影をするとその収縮様態をX線透視で観察することができます.
冠動脈疾患の治療法
冠動脈に有意狭窄があるとわかった場合には,冠動脈拡張剤によって冠血流増多を図ったり,心筋酸素消費が過剰にならないようにするβ遮断剤という薬を使ったり,抗血小板剤あるいは抗凝固剤によって狭い血管部位を通過する際に血液が粘着して凝固しないようにする治療を行う,といった薬物治療が基本的に行われることはいうまでもありません.
しかし漫然と薬剤治療のみを行っていては万全とは言えません.きびしい狭窄の存在がある場合,どれほど強力に薬剤治療をしていても(粥腫斑そのものを溶解し,動脈硬化巣をもとに戻せる薬があるわけではないので),結局閉塞して心筋梗塞に陥ってしまうリスクが残るわけです.前述のように心筋梗塞は致命的となり得る疾患なので,のんびり構えていてはなりません.積極的に狭窄を解除あるいは,狭窄の遠位部位に新しい血流を供給する血行再建の”配管修理”を行うべきです.特に,すでに1本の動脈に閉塞があって心筋梗塞を起こしており,残りの動脈にも狭窄があるような症例(多枝病変)では,後者の血管閉塞によってさらに大きな範囲の心筋梗塞が新たに形成され,命にかかわる可能性が大きいのですから,なおさらのことです.
狭窄を直接解除する治療としては,カテーテルを用いた治療があります.代表的な治療は経皮的経カテーテル的冠動脈形成術 (PTCA) と呼ばれる治療で,俗称”風船治療”と言われるものです(下図).さらにこの風船の上にコイル状の金属を乗せて狭窄部位に運び,狭窄部でパンタグラフをひろげるようにして留置して狭窄部に”つっかえ棒”をする,ステント留置術という治療もさかんに行われます.
狭窄の遠位部に新しい血行を再建する治療が冠動脈バイパス術です.手術的な方法であり胸骨正中切開といって胸を開いて心臓を露出し,脚の静脈(大伏在静脈といって内くるぶしから大腿部の内側に上行してゆくじょうぶな静脈)や内胸動脈(胸骨の裏を縦走し,本来は横に枝を出して肋間筋を栄養している動脈),胃大網動脈(胃袋の下側を走行している動脈)や橈骨動脈(前腕の動脈)などを用いて冠動脈に直接吻合して血行路を作る”配管工事”的手術治療です.
* | 心臓に吻合される血管をとってしまって,その部分の血流はどうなるの?という御質問をよく受けます.大伏在静脈を取ってしまっても 脚には筋肉の中を走る静脈が複数本あってこれらを介して血流が心臓に向かって戻ってゆくので,脚の血流がとまってしまうことはありません. 内胸動脈は肋間筋に栄養を送っていますが,肋間筋には背中側から,大動脈の直接の枝(肋間動脈)が出ていて栄養を送っているので,内胸動脈を心臓用に使ってしまっても大丈夫なのです.同様に胃大網動脈(胃の壁を栄養する),橈骨動脈(前腕,手に栄養を送る)の場合も他に栄養動脈が存在するという性質を利用して採取,心臓の血管に替えることができるのです. |
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経皮的治療(PTCAやステント留置術)のメリットは,なんといっても,開胸を要しない,という事です.麻酔も挿入部皮膚の局所麻酔だけでできますし, 痛みもほとんどなく速やかに狭窄部の解除が可能です.特に急性心筋梗塞の発症期に冠動脈造影で閉塞してしまった部位を疎通する場合には 手術(冠動脈バイパス術)よりもはるかに迅速に行える利点があります.
カテーテル治療の欠点は病変部に直接手を加え,性状の悪い場所で勝負をする治療のため に,どうしても再狭窄が出てしまう,という点です.PTCA (風船治療)で半年以内に30〜40%の再狭窄,ステント治療でも10%程度の再狭窄がつきものとなっているのが現状です.そのためにカテーテル 治療のみで血行再建を図ろうとすると,何度も繰り返して治療を行う煩雑を要する可能性が大きくなるのです.(もっともカテーテルによる 治療ですので,何度繰り返しても,手術治療よりは楽である,という考え方もあるでしょうが...)
もう一つのカテーテル治療の欠点は完全閉塞病変,特に長い間閉塞しっぱなしになっている 病変を開くことがなかなかに難しい,という事です.(長い間閉塞しっぱなしになっているのだから,その先の心筋はすべて死んでしまっ ている,と思われるかも知れませんが,かならずしもそうではありません.他の領域を走行する冠動脈枝から細かい側副血行が延びていてわずか ながら当該心筋に血流を送っており,十分な血流が再開されれば十分に収縮力を取り戻せる可能性がある,という場合がけっこう多いのです.)
多枝病変にカテーテル治療を行う場合は危険性が高まる,という弱点もあります.冠動脈狭窄部 位を開大する時には一時的に当該の血管は完全閉塞の状態になるのです(上図を参照してください.)このため拡張治療を している間は心筋の他の部分の血流による補償に頼っている部分があるのです.したがって他の枝にも有意狭窄(75%以上の狭窄)がありその部分 の心筋血流も低下している場合には,それだけ危険性が高くなる,というわけです. 左冠動脈主幹部病変に対し ては狭窄部開大の間に血流が流れない心筋の量があまりに多いので,非常に危険です.この部分に対するカテーテル治療は通常はやってはならない 治療です.
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冠動脈バイパス術の欠点は開胸手術である,という点です.当然痛みを伴いますし,治療を受け てからの回復期間も2週間以上を要するのが普通です.
一方で,冠動脈バイパス術では狭窄に陥った病変の先の健全な部分に健全な血管をつなぐ作業と なるので,それだけ確実な血行再建になります.きちんと吻合が行われると数年以内に再狭窄やつないだ血管の狭窄,閉塞などで再度の 治療(カテーテル治療追加や冠動脈バイパス再手術)を必要とすることはほとんどありません.特に 左前下行枝(3本の冠動脈のうち最も支配領域が大きく,大切な血管)に長持ちすることがわかってきた内胸動脈を吻合することが普通に行わ れるようになってから,バイパス術の効果が10〜15年,あるいはそれ以上,かなり長く持続するようになりました.)
冠動脈バイパス術なら完全閉塞病変に対しても問題なく血行再建ができます (閉塞部の先に新しい血管をつくるのですから当然です).また多枝病変であっても, 人工心肺による循環保護下に(つまり心臓が全身に血液を流す働きを機械に代行してもらっている間に)バイパスをつなぐことができるので, 安全にすべての部分に血行再建を企てることが可能です.
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以上の現実から,現在のところ以下のような治療選択が一般的になっています.
人工心肺を用いない冠動脈バイパス術について
従来冠動脈バイパス術は,
人工心肺による循環保護下に実施されてきました.心表面にある冠動脈(直径3mm程度の血管です)に血管吻合を行う手技ですが,心臓の収縮
に応じて冠動脈も揺れますので,3mmの血管吻合という細かい作業にとってはその動きはつらいものがあるわけです.人工心肺を回転させ,全身の循
環を機械に委ねた上で大動脈遮断を行い,心停止を得て手術をすれば,
靜かな視野で血流もない状態での吻合なので楽なわけです.
しかし人工心肺を用い,大動
脈遮断,冠動脈血流停止を施しておこなう手術にはそれ固有の危険性,侵襲性がある事も事実です.(→具体的には→
をクリックしてください.)そこで,この2,3年の間に,人工心肺を使用せずに行う冠動脈バイパス術が開発され,ずいぶんと普及して来ておりま
す.
具体的には吻合部の冠動脈部位が心臓の収縮に同期して動揺しないように,当該部をス
タビライザと呼ばれる装置で"抑えこんで”靜かな視野を得,切開した冠動脈から噴出する血流を細管を挿入したり,切開部の前(後)冠動脈
を一時的に牽引して堰きとめたり,それでも出てくる血流をガスジェットで吹き飛ばしたりして視野を確保し,吻合を行うのです
(下図)
さらに
正中切開の視野で手術をする場合,左前下行枝や右冠動脈近位部などは比
較的簡単に視野がだせ,心臓の本来の位置を動かさなくても吻合手技ができるのですが,回旋枝領域や右冠動脈末梢部などへの吻合に際しては心臓の
尖端を前側に持ちあげて,ちょうど心臓をひっくりかえすような操作をしないと吻合が出来ない,という問題があったのです.しかしこれについて
も特殊や心膜切開法および心膜の吊り上げの方法,ないし術中の体位の工夫をすることによって,ほとんどの部位の冠動脈領域で血行動態を維持
しながら吻合することが可能になっています.
2001年秋現在,欧米の代表的な冠動脈バイパス
施行施設で,全冠動脈バイパス術の40〜50%がこの人工心肺をもちいない方法での手術になっています.日本においても,この方法は急速に普及してお
り,施設によっては90%以上の症例をこのやり方で行っている現状です(全体の施設では30%程度ではないか,と推定されます).