(聖路加国際病院・心臓血管外科 渡辺 直)
心臓には4つの部屋があります.右心房,右心室,左心房,左心室です.全身の静脈から還流してくる血液は右心房に戻り,以後右心室→肺動脈→肺静脈→左心房→左心室と流れて,左心室の強力な収縮によって大動脈へと送られてゆきます.
(全身の血液循環についての項目を参照してください.)この一定の流れを維持し,逆流を防止するために,心臓の4つの部屋のしきりには弁がついているのです.心臓は,ちょうどスポイトのようにぎゅーっと収縮して中身を押しだし,そのまま復元力で弛緩して次の血液を受け入れる,という単純な収縮-拡張という動きを繰り返しているのにすぎません.したがって逆流防止の弁がなければ,せっかく収縮によって前方に送り出された血液が弛緩の間にもとに戻ってきてしまうのです.このことからも,弁膜の働きの重要性が理解できると思います.
弁膜症とは? 弁膜症はどの弁におこるのか?
4つの弁のうち,臨床的に問題となる病気はほとんど左側の部屋(左心房および左心室)についている弁についておこります.
(上の図を参照下さい.)すなわち左心房と左心室の間にある,僧帽弁(そうぼうべん)か,
あるいは左心室と大動脈の間にある,大動脈弁の疾患です.右心室は肺のみに血流をおくればよい部屋であり,収縮に際して軽い力ですみます.実際,
右心室が血液を肺動脈に送るときの圧力は20〜30mmHgという力であり左心室の圧力(=血圧の高い方の圧)(120〜140mmHg)の1/4程度なのです.これだけ低圧であるため,
弁膜にかかる負担も小さく,従って肺動脈や三尖弁は変性しにくい事になります.また多少の逆流も肺だけに血流を送る部屋である右心室,右心房にはさして悪い影響を及
ぼさない事が多いのです.左心室から大動脈にかけては水銀柱を12cm以上も持ち上げるような強い圧力
(120mmHg程度)が発揮されているのですから,それだけ弁膜にかかる負担が大きく,逆流や硬化による狭窄(出入口が狭くなること)が生じやすいわけです.
まれながら,先天性の心臓の構造異常で肺動脈弁が狭窄する事があります.また,僧帽弁や大動脈弁が高度の逆流な いし狭窄を呈した場合は,血液は順方向に流れてゆきにくくなるので,それだけ肺から心臓にゆく血液が交通渋滞をおこして欝滞してしまいます.このために肺に血液を送る 右心室にも血液が充満して薄い壁の右心室が拡張し,弁輪がのびきって三尖弁が逆流をおこすことがあります.この場合はもともとの原因である僧帽弁や大動脈弁の状態がよ くなれば(つまり手術によって弁逆流/狭窄が解除されれば),自然に三尖弁の逆流も軽減することになるわけです.もちろん,高度の三尖弁逆流を伴う場合には僧帽弁や大動 脈弁の手術にあわせて,のびきった三尖弁の弁輪をきんちゃく状に締め直す手術を追加する場合があります.
弁膜の
病気には大別して逆流(閉鎖不全)と狭窄とがあります.逆流とは,弁が変性してきちんと閉じなくなったために正常の血流の逆方向に血液が戻ってき
てしまう現象です.(たとえば僧帽弁閉鎖不全がおこると左心室の血流が収縮期に左心房に逆流してしまいます.)狭窄は弁腹が肥厚(厚くなる),硬化してしなやか
な動きができなくなり,こわばって血流を妨げるようになる現象です.また狭窄と逆流が同時におこることもあります.肥厚,硬化してこわばった弁膜が十分に開かなくなっ
て狭窄を形成すると同時にこわばったままで動かなくなるために中心から漏れがでてしまうことがあるからです(狭窄兼閉鎖不全症).
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弁膜症の原因は?
かつて(20年以上前まで)は,弁膜症の原因はほとんどリウマチ熱の後遺症によるものでした.リウマチ熱という病気は溶血性連鎖球菌というばい菌によっておこる感染症で,風邪症状とともに紅斑とよばれる発疹が出たり,多発性に関節の痛みがおこったりする病気です.症状が軽くて終わる場合には,ただの風邪として片づけられてしまうこともあります.しかしこの菌による炎症が心臓の弁膜に及ぶ場合が時としてあり,変性をした弁が,その後数年あるいは数十年かかって次第に荒廃していって肥厚,硬化,石灰化などの変化を呈し,狭窄や狭窄兼閉鎖不全を招くに至る,これがリウマチ性弁膜症なのです,(いわゆる関節のリウマチとは別の病気です.)
現在では抗生物質の普及などの理由でリウマチ熱が抑えられた結果,リウマチ性弁膜症は激減しました.かわって弁膜症の原因として主たるものとなったのは,
体質的に弁膜の構築が弱く,このために左心系(左心房-左心室-大動脈弁)の高い圧に耐えきれずに次第に漏れを生じ てくる,という形の閉鎖不全(僧帽弁閉鎖不全や大動脈弁閉鎖不全)
動脈硬化に伴って大動脈の弁にも変化がおこり厚く,固くこわばって狭窄や閉鎖不全を呈するもので,高齢者に見られる もの
となりました.この他,
抜歯や怪我などで一時的に血液中に混入したばい菌が弁膜にとりついて弁を破壊してゆく病気 (感染性心内膜炎)
狭心症/心筋梗塞といった心筋に栄養をおくる血流が悪くなる病気で僧帽弁をささえている乳頭筋 ( 上の図を参照ください.)の機能が落ちて閉鎖不全が出る場合(乳頭筋機能不全による僧帽弁閉鎖不全)
大動脈の解離という,大動脈壁が裂け込んでおこる病気が大動脈弁をささえている部分に及んだ場合の 大動脈弁閉鎖不全
うまれつき大動脈弁の形状に異常がある場合(先天性二尖弁といって3枚あるはずの大動脈の弁尖が2枚
しかないものや,よりまれですが,4枚ある先天性四尖弁)も成人になってから(しばしば中年以降になってから)狭窄症や閉鎖不全症をきたして手術治
療の対象となります.
弁膜症の治療は?
弁膜症に対しては内科的な薬剤治療と外科的な治療,および僧帽弁狭窄症に対するカテーテル治療の3つの治療があります.
弁膜症に対する薬剤治療,といっても変性した弁を正常に戻す,あるいは正常に近づけてゆく,といった薬があるわ
けではありません.薬剤治療というのは,多少の逆流や狭窄があったとしても,それに抗して心臓ががんばって機能し続けるように強心剤(心筋の収縮力を増強する
薬)や利尿剤(血液の量を減らして心臓の負担をとる薬)や血管拡張剤(大動脈から先の細い動脈系を拡張させ,抵抗を下げて心臓が血液を駆出しやすくする薬)
などを用いて,いわば心臓がハンディをもったままがんばるように促す治療なのです.
しかし,逆流や狭窄がある程度を越して重症度が進んでしまうと,心臓への負担
を薬剤でまかなうことができなくなります.この場合はどうしても弁を修復したり,あるいは人工の弁に取り替える(置換する)治療が必要となるのです.これが弁膜症に対する
外科治療(あるいはカテーテル治療)です.
弁の修復(弁形成術)には,余剰となった弁尖を切り取って縫い合わせなおしたり,腱索(心房と
心室の間にある弁を心室側で支えているズボン吊りのような組織.複数本の腱索がまとまって乳頭筋に付着している.
上図を参照してください)を立て直して漏れをなおしたり,拡大して緩んでしまった弁輪を締め直してきちんと弁尖が合わさるようにする治療(
閉鎖不全に対する治療)や癒合してしまった弁尖を切り開いて狭窄を解除する治療(交連切開術)などがあります.房室弁(心房と心室の間いある弁,つまり僧帽
弁や三尖弁)に対して主として行われ,よい成績が上がっています.
弁の病変があまり進んでいない症例なら弁形成術にてほとんど生涯にわたり正常(に近い)
弁機能が維持できることが十分に期待できます.弁置換術と比べて,人工弁の耐久性を心配したり,煩雑な抗凝固剤のコ
ントロールに悩まされないでよい,という利点があります.
しかし弁の病変が一定以上に進んでしまえば,どうしても修復によっては長期にわたる効果が得られないので,弁を切除して
人工の弁に取り替える必要が出てきます.弁置換術と呼ばれる手術です.
弁形成術にしても,弁置換術にしても,心臓を開く手術ですので,人工心肺を用いた開心術になります.僧帽弁の手術の場合は左心房に切開を加えて中を覗き,僧帽弁に到達して行われ,大動脈弁の場合は大動脈の基部に切開を加えて手術がなされます.
これに対して僧帽弁狭窄の程度が中等度までで,閉鎖不全を伴っていない場合は,カテーテルという管を用いて行われる治療が存在します.大腿部の静脈から挿入した管(直径4mm以下の細い管)を進めてゆき,右心房で先端についた針のような組織で心房中隔を穿破し,左心房に管の先端を導いてゆきます.この管を介して先端に風船のついたチューブを挿入し,僧帽弁を通過する所でしぼませて進めた風船を大きくふくらませる事により,僧帽弁の癒合部が裂開し,狭窄が解除できる,という治療です
(経皮的経カテーテル的僧帽弁交連切開術;PTMC) .
この治療の魅力はカテーテルで行われる治療であるために開胸という操作が不要であり,全身麻酔もいらず,回復も早い,という点です.十分な開大が得られれば,そのまま長期に再狭窄を来さずにいける場合も多いのです.問題点は適応できる病態が限定的であること,心房中隔を穿破する時の合併症や僧帽弁開大による有意の逆流の発生のために結局手術が必要となる可能性があることでしょう.
同様の治療は大動脈弁狭窄症に対しても行われますが,僧帽弁とくらべて十分な効果が得がたく,手術治療には及びません.
人工弁とは?
人工弁は著しく機能不全に陥った弁の代替として用いられる,人工的に作成された代用物です.人工弁は欧米の複数のメーカーによって作られています(製品化されている日本製の人工弁は存在しません.)が,大別して機械弁と生体弁に分類されます.
機械弁は文字通りまったく生体材料を用いずに作られた代用弁です.現在用いられている弁はパイロライトカーボンと呼ばれる特殊な炭素樹脂でできた弁葉と弁輪部(弁葉を支えるリング)から成り立っているものがほとんどです.また,多くの場合,弁輪や構造の一部にチタンという金属が使われています.弁輪部は心臓の弁輪に縫いつける(上図をご覧下さい.)のですが,このために人工弁の弁輪部には化学繊維(テフロンやダクロンと呼ばれるもの)で作られた布が着けてあります.
これに対して生体弁は動物の弁膜組織(通常ブタの僧帽弁)あるいはウシ心膜(心臓を包んでいる膜で心嚢とも呼ばれる)組織を用いて作ったものです.拒絶反応(異種生体が体内に入ると,これを排除しようとする免疫反応)をおこさないように,弁膜組織として用いた生体材料はグルタルアルデヒドという薬剤で処理をされています.
* | 人工弁に使われている素材はカーボン (炭素樹脂)とチタン (titanium) とう磁性を帯びない金属ですので,弁置換患者さんでもMRIやCTといった検査を安心して受けることができます. |
←機械弁と生体弁
機械弁のメリットはなんといっても,その耐久性でしょう.理論的にははるかに人間の寿命を凌駕する耐久性が期待できます.実際には現在使われている形状の機械弁が人間に用いられてからせいぜい30年近くしか立っていませんが,以下に説明するような人工弁血栓や人工弁に及んだ感染などがなければ,現在最も普及している型の機械弁が構造的にダメになってしまった,という例はほとんど認められていません.
機械弁のデメリットは生体適合性の低さです.血液は異物に触れると固まろうという性質があります.機械弁,というまったくの生体とは違う組織に接触した血液には常時凝固しようとする働きが作動します.この働きを抑止しないと弁葉に血栓が付着し,ちょうつがいの部分などに付着して血栓が太ると弁葉の動きが抑制されて弁葉があきっぱなしや閉まりっぱなしで固定されてしまい,急激な心機能不全をまねく危険がでてきます(血栓弁).そこまで大きな血栓の成長がない場合でも弁葉に付着した血栓塊が弁葉の動きで揺すぶられて飛散し,脳動脈などの他臓器への血流に流れていってそこで詰まることがあります.人工弁に付着した血栓による脳梗塞の発生,という恐ろしい合併症が起こりうるのです.
← | このような機械弁の合併症を起こさないためには,従って,生涯にわたって厳密な抗凝固治療を受ける必要があるのです.ワーファリンという薬剤を生涯にわたり厳密なコントロール下の内服し続ける,ということです. |
生体弁のメリットは,その生体適合性のよさです.縫合糸や縫着輪に偽膜という血流由来の組織が張って直接血液に接触することがなくなる数ヶ月後以降は抗凝固剤による治療をしなくても生体弁に血栓が付着することはごくごくまれなことになります.このため,煩雑な抗凝固治療を回避できる,というメリットが生じます.
生体弁の欠点は,その限定的な耐久性です.大動脈弁の位置に高齢者に用いる場合がもっとも良好な耐久性が発揮されるのですが,それでも15年位が信頼できるところでしょう.
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生体弁は,耐久性の問題から,その適応は正常洞調律(正常の規則正しい脈)の大動脈弁膜症の患者さんで,年齢が70歳くらい,あるいはそれ以上の方に用いられるのが普通です.あるいはワーファリンが催奇形性(奇形児をつくる性質)を有することから,妊娠の可能性のある若年女性に採用する場合もあります.ただし,この場合は挙児を得た後,数年〜10年くらい後で機械弁に入れ替える再手術を覚悟しなければならないでしょう.
ワーファリンについて
人工弁置換術後などで使われる強力な抗凝固剤がワーファリンと呼ばれる薬です.この薬は内服され体内に吸収されると肝臓において凝固因子という,血液凝固に関与する重要なタンパク質の生合成を抑制するように働きます.つまり,ワーファリンが効くと凝固因子が減って,それだけ血液が固まりにくくなる,というわけです.効きすぎれは出血傾向を招きますので,鼻血が止まらなかったり,歯を磨いた後の出血がひどかったり,これならまだましで,関節内出血や脳内の出血を招いたり,たいへん危険な状況になり得ます.逆に効かないと機械弁置換患者さんの場合は血栓弁や置換弁に由来する脳梗塞などの血栓塞栓症の危険性が出てくるわけです.ちょうどその間を縫うような効き目を発揮できる量に,上手にコントロールをする必要があるのです.
ワーファリンを内服している患者さんは少なくとも1〜2ヶ月に1度は病院を訪れてワーファリンの効き目をみる検査を受け,適切な量に調整をしつつ内服を続けなければなりません.
ワーファリンの効き目を見る検査としてはトロンボテストというものとINRとよばれるものがあります.トロンボテストでは正常の血液凝固性が100%という数字で表現され,この数字が低くなるほど血液が固まりにくくなります.人工弁患者さんでは7〜15%程度が治療域といえるでしょう.これに対してINRでは正常凝固性が1.0であり数字が高くなるほど血液が固まりにくいことを表します.人工弁患者さんの治療域は1.8〜2.5というところになります.
ワーファリンは肝臓における凝固因子の産生を抑える薬ですが,具体的には凝固因子作成にかかせないビタミンKとよばれるビタミンの作用をブロックする事で働いています(上図).従って多量のビタミンKを含む食品を偏って摂取するとワーファリンの効き目が落ちることになります.ビタミンKは濃い色の野菜に多く含まれていますので,たとえば毎日ほうれん草のおひたしを食べたり,野菜ジュースを毎日1リットルも飲み続けたり,健康青汁を飲んだりするとさすがに効き目が低下してしまいます.しかしこれらの野菜類をとってはいけないのではなく,ひとつの食材に偏らずにバランス良く摂取していればよいのです.
ただし例外がひとつあります.それは納豆です.納豆は納豆菌が産生するビタミンKを非常に多量に含んでいる食品なのです.他の野菜類とくらべてもグラムあたりの含有量は100倍にもなります.このため,さすがに納豆を摂ってしまうとワーファリンはほとんど効き目が失せてしまいます.従って機械弁置換を受けている患者さんは決して納豆を食べてはいけないのです.
勘違いしないでいただきたいのは,納豆が心臓に悪い,という事では決してない,という事です.納豆はワーファリンを飲んでいる人にのみ不都合なのであって,むしろそれ以外の人には心臓,血管の病気に対して予防的な効果をもつ優れた食品なのです.その良質な植物性タンパク質,低脂肪,納豆菌が産生するナットーキナーゼと呼ばれる血栓溶解物質の存在など,動脈硬化を防止する力のある成分に満ちた食品であることは知っておいて下さい.