渡辺 直のpersonal page....

垂直の音楽と水平の音楽

 

バッハの音楽がなぜ僕にとって特別なのか.今晩もチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いたあとでバッハの作品と比較してみたりしたのですが,ふと,音楽のもつ意味の次元の違い(水平か垂直か),という観点で区別できるように思われたのです.

バッハの音楽性の有するあの深さ,人間性をすくい上げる透明な落ち着き,逸脱を知らない限りない優しさ,重厚だがおぼれてしまうころのない悲劇性の表現は,彼の拠って立った時代性---天上と世俗との調和,世俗から出発して至高までそびえ立つ”神=人”としての人間のあり方を軸とし,この基礎の上に認識が行われる,という構え---による結実であった,といえるのではないでしょうか.

バッハはルネッサンスを経験しています.人間の個としてのあり方,出発点としての個の重大性を十分に自覚していたでしょう.中世的神聖秩序による人間=個の圧殺はバッハにとっても思想的に過去のものだったに違いありません.にもかかわらず,彼は中世に近かったのです.中世の神聖秩序の伝統は彼の思想性の内に強く足跡を残していたのです.

バッハにとっては人間は個であり,個としてありながら,しかも神に向い上昇し,天上に至るところの存在である,という視座があたりまえであり,自然だったのです.個として自由でアクティブな存在でありながら,その投企 (engagement)の究極的結節点として神を予定する,という神=人としての視座が,かくしてバッハの音楽性の根底を流れ,その彩りを決定することになるのです.

こうして地上から天上の極に到る立体的な,かつ確実に揺らぐことのない支柱がバッハの音楽性の芯に据えられています.バッハの音楽を聴いて,僕が透明な上昇を体験し,しかも決して上昇によって足場をすくわれるような不安定な夢幻に彷徨うことなく,安定して静かに洗われてゆくのは,バッハの音楽にあるこの”芯”の故だとは言えないでしょうか...バッハの曲の中に現れる,胸あつくなるほどうっとりさせるエロスの響きが,それにもかかわらず決して悪魔的な欲情や,本気になれない趣味的な色気に落ちついてしまうことなく,僕を高揚させてくれるのは,あの支柱が僕の愛を支え,無理なく肯定的な情愛にまで導こうとしてくれるからにほかなりません.

それにしても,バッハの音楽に展開される三次元性の壮大さは何という力でしょう.バッハの音は地上から発しているにもかかわらず,その音源は星辰にあるのです.一瞬の星のまたたきが,たちまちにして宇宙を縦に割る一条の光線となってチェンバロの銀色の弦の上へと帰還するのです.一瞬の緊張がバッハの楽曲によって,これだけの壮大な空間にまで拡張されてゆきます.バッハの楽章は,こうしてすべて”瞬間の時間内への展開”となって結実します.バッハの音楽は,だから叙情的な感情の表現ではあり得ないのです.なぜなら,感情のあり方自体,その成立のために時間を前提とし,その起伏は当然に時間の次元に於いておこるものだからです.バッハの音楽は叙情物語の音化ではありません.それは瞬間(時間性からの超脱,”永遠のアトム”(キルケゴール))の音化であり,時勢に流されてはやがて消滅し去る一次元的地平からの超越,すなわち,言葉の至純な意味での”詩”の音化にほかならないのです.

チャイコフスキーはどうでしょうか.彼は十九世紀後半の大作曲家であり,科学的技術の奇跡的な進歩に人間が自身の持つ力に驚き,喜ぶ,オプティミスティックな時代の人でした.当時ロシアは後進国であったとはいえ,西欧の文化的,科学技術的影響は十分にチャイコフスキーにまで到達していたに違いありません.時代精神は進化論であり,啓蒙思想が強く人々の内奥にまで浸透していました.啓蒙思想は人間の自律の思想であり,近代的個人の誕生の宣言にほかなりません.それは一面に於いては,人間の個人としての自覚と独立性,人間の有する能力及び威力の強い肯定であり,この意味に於いてルネッサンスの伝統の徹底化でした.デカルトの哲学に見るあの単純すぎるほどのオプティミズムです.ですが,他面に於いてこの事は,人間の自律の徹底化----すなわち神からの人間の離反訣別,天上の忘却を意味し,人間が天を去って二度と再びこれを求めず,地上のみで自らの生を燃焼させようとする姿勢----を要請したのです.ニーチェが現れ神の死を宣告しました.

こうした時代の風潮は,当然にも敏感に音の世界に影響を及ぼすことになります.バッハの音楽が天空の星辰から地上へと結ぶ縦軸によって決せられる垂直的な奥行きを基調とし,この支軸をめぐって展開されたのに対し,ロマン派の音楽は,その成熟に至っていよいよ,この遠長なる縦軸を排し,具体的時間性のうちに展開される現実的世界にのみ視点を固定することとなってゆきました.すべてはこの時性の圏内に於いて生起し,消え去ります.世にこれ以外の場所はあり得ないのです.時性を超克して存在する視圏の広がりとは,実は幻想にほかならないのです.----こうして音楽は二次元的地平に降りてきました.永劫の過去から永劫の未来へとアメのように引き延ばされた時性のうちであらゆる音が躍動しては消長します.音は一定の有限時間を贈られ,この中で感性の推移を追うことを使命とするようになったのです.すなわち,音楽は叙情物語の音化なのです.これがチャイコフスキーの音楽の特徴である,と言えないでしょうか.

チャイコフスキーの音律はロシアの大地につちかわれた壮大な叙情詩の音化です.その内で人間の勇壮と力強さと希望が,優しさと心の広さと愛情とが,またある時は憂いを含んだまなざしと悲しみをたたえた口もととが,そしてさらに悲嘆に沈んで大地にひざまづく重い感情が,その独特の足取りとなって,またそうかと思えば今度は,にくみきれないいたずらぽさとひょうきんな振舞いがユーモラスに消えてはまた現れ,交錯してゆきます.時流を,あたかも流れ行く川表に漂う舟の動揺のように進む人間感情の変転のドラマが,実に微妙な旋律とリズムのうちに象徴化され,空間を潤し,流れてゆく...機微に触れた感情表現の造形をチャイコフスキーは僕に贈り,その豊かな感性ののびのびした舞踏のうちに,日常性のこわばった情緒の化石の中で乾いていた僕の喉は潤い,満足させられるのです.潤い----この言葉によってロマン派の音楽が僕に対して有する意味が明らかになります.チャイコフスキーの音楽を聴くことによって僕が体験するものは,驚くほどの感情の豊饒を飲むことによる精神の乾きからの開放であり,癒しなのです.この人間味豊な贈り物によって僕自身の感性の根に水が差され,円滑化されてゆくのです.

チャイコフスキーの豊饒によって癒された僕の魂は,しかし,それだけでは満足できなくなります.乾きを癒す水,それは本当に大切です.与えられた水が清らかで冷たく,滑らかであったならば,乾きを癒す時の僕の喜びは大きなものになるでしょう.チャイコフスキーの音楽は,おそらく考え得る最良の水の一種であるのに違いありません.この水をもって潤ったら,さあ,水平から垂直の旅に出かけましょう...人間という実存にとっての価値とは,個を時点に於いて生ぜしめ,やがては別の時点で消滅させようと運びゆく時性の連鎖からの超脱であり,創造性をもって飛翔し,垂直に時軸を裁断し,永遠性に触れることなのですから...バッハの音に触れる時に感じるあの結実するような喜び.これです.

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まもなく夜が明けます.バッハ-----多少精神が緊張しているせいでしょうか,静かに浸透してくる重さがあります.

西洋の文化は死を乗り超えようとします.日本の文化は死と和解しようとします.日本の情感が死を丸く包んで溶かして行き,死は愛撫され,嗅覚のうちに漠然と味われます.

西洋は見つめます.眩暈を誘う絶壁の頂点に立って深淵と対峙し,決して目を逸らさず,そこから飛翔しようと試みる,骨太い鋭角の美が輝いています.

それにしても西洋の文化は,何という涙ぐましい美でありましょう.自らの存在を危機の前に骨晒しにして,深い悲劇性のうちから一点の充実となって射出そうとする渾身の投げかけ.その生のintensityは,その背後に無底の深淵を自覚しているのでなければ,決して結晶化されることはなかったでしょう.

日本にいると僕はとりまかれ,包まれ,撫でられて心地よく目を閉じます.日本の美の中で僕の人格が溶けてゆきます.その安らかさの中で,時に僕は叫んでいます.僕はここにいてはいけない.なぜなら人間は一つの乗り超えなのだから...死を乗り超えない生とは一体何の価値に相当するのか,自意識は何のために人間に贈られたのか...

僕が求める西洋は,原点としての,中世と近世の統点としての結実です.強烈な自意識をもって見つめ,把握しつつ,こうした明確な個として分断された人格が,それにもかかわらず堅固な時性の殻を超克して飛翔し,外界と有機化して合一するという,積極的な矛盾の敢行-----これこそが僕が希求するプロミネンスです.

もしかすると,外界との合一(主=客合一)こそ,東洋がはぐくんできた泉である,と反論する方がおられるかもしれません.これに対して西洋とは自律であり,自己意識であって,外界との分断(主=客分裂),個としての確立なのだ,と概括できる,というのです.確かに日本人は自然になじみ,自然と親しんできたが,西洋人は自然を”征服”してきた.こうした見方も一面正しいと言えそうです.そうであれば,かの結節点は,西洋と東洋との,優れた意味での統合と言えないでしょうか.

キルケゴールは女性の本質は献身である,と言っています.献身とは自身が相手に捧げられる,という事であり,主=客融合です.彼は言っています.「......男にも献身ということはある.そして,それをしないようなものは男の屑である......男は献身するが,献身しながら,自分は献身しているのだ,という意識のうちに自己をとどめておく.それにひきかえて女性はまったく女性的に,自己自身を,自分の自己を献身する相手の中に投げ込むのである.女性から,この献身ということを取り去るならば,彼女の自己も取り去られる.」(「死に至る病」より抜粋.)この文脈に沿ってたどれば,かの統点とは,男性的なものと女性的なものの統合である,とも表現できるのでしょう.

西洋を希求する僕の精神.つまりはこの原点,あるいは統点を希求する心情.なぜ西洋なのか.

東洋の思想性は自我を厭い,自我を没却することによって宇宙へと合体しようとします.そこには人間として生まれてしまったことに対する後悔の念があり,単に生命体となって自然の生命性の中に融解してしまおうとする諦念がみられるのです.東洋的諦念,という理念によって東洋は単純な解決を選択し,そこに停滞してきました.西洋に見られるような,矛盾を徹底的に敢行してゆこうとする積極性を持ちあわせなかったのです.

西洋は個として分断されることの危険性を決して厭いませんでした.自らと外界とを峻別し,自己を外界のさなかに対峙させつつ明確に位置づけようとする努力が行われてきました.もちろんこの努力は,自己意識の完全な徹底化によって,最後の最後まで個としての人格が外界から分離されたままに終わり,人格は孤独の中で消滅するかも知れない,という切迫した危険性を多大にそのうちに孕んでいました.こうした危険性は,近世以降,分析的(あるいは主=客分裂に基づく)思惟が科学技術の奇跡的な発展を生み出し,分析的な思惟ですべてが解決されるという幻想が西洋を覆い尽くすようになるに至って,いよいよ顕著に現れて来ざるを得なかったのです.そして事実,現実として帰結している西洋は,ニーチェ---サルトルのラインに連なる孤絶した自意識----これが,あくまで分析的思惟の地平を出ることを知らない,デカルト的オプティミズムのゆきついた先だったのですが----によって土壇場の自己投企が繰り返される混迷の場であるのかもしれません.

しかしながら,こうした自己意識のあらしにまきこまれて方向性を失い,孤絶の境に陥る危険性を常に自らの傍に措きながら,それでも東洋人的な自我滅却へと後退することなく,むしろ透徹させてゆき,外界からの独立を保ったまま,しかも外界との間隙を乗り超えてしまおう,とする矛盾の解決に向かう努力が営々と続いてきたのです.ここにこそ西洋の思惟の偉大性があり,僕を原点へと邂逅させるあるものがあります.人格の弁証法----

こうして実現される統合こそが原点へのすぐれた意味での帰還の瞬間であり,個として生きる使命を贈られた人間存在にとっての至高の成就なのだろうと僕には考えられるのです.そして,こうした合一に於いて実現される美は,常に孤絶の深淵から目を逸らさずに矛盾の運動を敢行したものだけが到達する,鋭く切り立つような力強い優美であることでしょう.この射し込むような美のあり方が,西洋の芸術性の印象です.

僕はすぐれて東洋的なものに到達するために,迷うことなく西洋的にならなければなりません.僕はついには女性となるために,敢然として男性であらねばならないのです.

 


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